山崎照朝とは何者だったのか?極真の龍の戦績・死因・逆真会の歩みを徹底解説
「極真の龍」と呼ばれ、空手界の歴史に名を刻んだ山崎照朝(やまざき・てるとも)さん。1969年の全日本空手道選手権大会で初代王者に輝き、キックボクシングでも8勝すべてをKOで飾った実力者です。引退後は格闘技ジャーナリストとして活動し、空手の指導を通じて後進の育成にも力を注ぎました。漫画『あしたのジョー』の人気キャラクター、力石徹のモデルとしても知られています。
しかし、2025年6月22日、山崎さんは胆管がんとの闘病の末、77歳で亡くなりました。家族による訃報の発表後、極真会館や格闘技関係者から追悼の言葉が寄せられています。2026年現在、改めて注目したいのは、華々しい戦績だけではありません。師・大山倍達から受け継いだ空手の理念、逆真会館での指導、そして記者として格闘技を伝え続けた生き方です。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 経歴:1947年生まれ。1969年に極真会館の第1回全日本空手道選手権大会で優勝し、初代王者となった。
- 戦績と功績:キックボクシングでは通算10戦8勝8KO2敗。空手家としてだけでなく、ジャーナリスト、指導者、歌手としても活動した。
- 死因と晩年:2025年6月22日、胆管がんのため77歳で死去。逆真会館の創始者・最高師範としても知られる。
【人物像】山崎照朝はどんな人物だったのか?経歴とプロフィール
山崎照朝さんは、1947年7月31日生まれ、山梨県出身の空手家・キックボクサー・格闘技ジャーナリストです。極真会館の創始者である大山倍達の門下生として修業を積み、直接打撃制の空手競技が発展していく時代に、卓越した技術と実績を残しました。
人物プロフィールでは、身長177cm、体重62kg、空手道七段とされています。日本大学農獣医学部を卒業し、学生時代から空手競技に加えてキックボクシングにも取り組みました。引退後は新聞記者として格闘技を取材しながら、空手の指導を続けています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 山崎照朝(やまざき・てるとも) |
| 生年月日 | 1947年7月31日 |
| 出身地 | 山梨県 |
| 身長・体重 | 177cm・62kg |
| 学歴 | 日本大学農獣医学部卒業 |
| 空手の段位 | 七段とされる |
| 主な異名 | 極真の龍、天才 |
| 主な肩書 | 空手家、キックボクサー、格闘技ジャーナリスト、歌手 |
| 代表的な実績 | 1969年・第1回全日本空手道選手権大会優勝 |
| 死去 | 2025年6月22日、77歳 |
山崎さんが高校時代に極真会館へ入門した際、稽古場は東京・池袋にありました。極真会館の追悼文や武道専門メディア「WEB秘伝」の人物紹介によると、山梨の実家から総本部道場まで片道3〜4時間をかけて通っていたといいます。
高校生にとって決して容易ではない移動を重ねてまで稽古を続けた背景には、空手に対する強い意欲がありました。才能だけでなく、日々の修業を積み重ねる姿勢が、後の競技成績を支えたのです。
「極真の龍」という異名は、単に勝ち星の多さを示すものではありません。鋭い攻撃と隙の少ない構えを両立させ、相手の動きを見極めながら勝機をつかむ。その実戦的なスタイルが、山崎さんを初期の極真空手を代表する選手の一人に押し上げました。

【戦績】全日本空手道選手権で残した実績と極真空手の技術
山崎照朝さんの競技人生を語るうえで、最大の実績となるのが1969年の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会です。極真会館が開催した、直接打撃制ルールによる大会で初代王者となり、その名を広く知られるようになりました。
新極真会が公開する全日本大会の公式記録でも、1969年の優勝者として山崎さんの名前が掲載されています。第1回大会の準優勝は添野義二さん。初期の極真空手を象徴する選手たちが、互いに競い合いながら競技の水準を高めていきました。
その後も山崎さんは全日本選手権で上位に進出しています。第2回大会では準優勝、第4回大会では4位、第5回大会では再び準優勝を記録しました。特に1973年の第5回大会では盧山初雄さんとの決勝戦が知られ、極真空手の歴史に残る対戦として語り継がれています。
山崎さんの特徴は、攻撃力だけを前面に押し出す戦い方ではありませんでした。相手との間合いを保ち、無駄な動きを抑えながら、突きや蹴りを的確に繰り出す。上段回し蹴りをはじめとする鋭い技と、相手の攻撃を受け止める堅固な構えが持ち味でした。
極真会館の松井章奎館長も、2025年6月23日に公表した追悼文で、山崎さんの構えには隙がなく、技の切れにも学ぶところが多かったと振り返っています。現役選手としての実績に加え、後進の目標となる技術を体現したことが、山崎さんの評価を支えているのです。
【キックボクシング】10戦8勝8KO、「極真の龍」が見せた破壊力
山崎照朝さんの強さは、空手の試合だけにとどまりません。1969年には、当時人気を集めていたキックボクシングにも参戦しました。大山倍達の勧めもあり、極真会館から選手を送り出す形でリングに上がり、短期間で注目を集めます。
逆真会の公式プロフィールなどに記載された通算戦績は、10戦8勝8KO2敗です。勝利した8試合はすべてKOで、2敗はいずれも再戦での判定負けとされています。勝利数だけでなく、倒して勝つ能力を示す数字としても際立っています。
当時のキックボクシングは、テレビ中継を通じて人気が高まっていた時期でした。山崎さんは「ワールドキックボクシング」で看板選手として活躍し、タイの強豪選手らと対戦。空手で培った蹴りの技術を、キックボクシングのリングでも発揮しました。
ただし、空手とキックボクシングは同じ競技ではありません。ルールや攻防の組み立てが異なるなかで結果を残した点に、山崎さんの技術の幅があります。空手の試合で磨いた間合いの管理や攻撃の精度が、異なる競技でも武器になったと考えられます。
また、山崎さんは在学中の日本大学農獣医学部でキックボクシング部の創設に関わり、学生競技の普及にも力を注ぎました。選手としてリングに立つだけでなく、競技に取り組む環境を整えたことも、格闘技史における重要な足跡です。
「極真の龍」と呼ばれた山崎さんが異なる格闘技でも活躍できた理由は、単純なパワーだけではありません。相手との距離を読み、技を出す瞬間を見極める。技術と判断を組み合わせた戦い方こそが、その強さの核心だったといえるでしょう。

【大山倍達と逆真会館】引退後も続いた空手指導への信念
山崎照朝さんの人生を理解するうえで欠かせないのが、師である大山倍達との関係です。極真会館に入門した山崎さんは、大山館長や師範代の石橋雅史さんらから指導を受け、実戦的な空手の技術を磨きました。
大山倍達は、直接打撃制の組手を通じて空手の実戦性を追求した人物です。その教えを受けた山崎さんも、実際の試合で通用する構えや攻防を重視しました。後年、技術を言葉で伝える立場になってからも、稽古で培った感覚を指導に生かし続けています。
競技選手としての活動を終えた後、山崎さんは埼玉県大宮で空手道場「風林火山」を設立しました。逆真会の公式プロフィールなどによると、1977年4月に青少年への指導を始め、その後、1990年代半ばに国際武道空手連盟「逆真会館」として組織化・改称しました。資料によって設立・改称の年には1995年と1996年の表記がありますが、風林火山から逆真会へと活動を発展させた流れは共通しています。
山崎さんが重視したのは、空手を生活の糧とすることよりも、自らが学んだ技術を次の世代に伝えることでした。道場の運営には場所代などの経費が必要でしたが、本人はボランティアとして子どもたちや門下生を指導する姿勢を続けたと紹介されています。
2011年8月には、それまでの形態から指導者を対象とする空手研究会へと活動を移しました。広く門下生を募る道場運営から、指導者の研究・研鑽を重視する形へと重点を変えたことになります。
この指導方針には、山崎さんの武道観が表れています。大会で勝つことだけが空手の目的ではなく、技術を正しく理解し、実践できる形で伝えていくことにも価値がある。競技者として頂点を経験した人物だからこそ、勝敗の先にある指導の役割を重視したのでしょう。
また、山崎さんは全日本女子プロレスの特別コーチも務め、長与千種さん、ライオネス飛鳥さんによるクラッシュ・ギャルズらの指導にも携わりました。競技の枠を越えて技術を伝えた点からも、その指導力がうかがえます。
【ジャーナリストと歌手】力石徹のモデル説は本当だったのか
山崎照朝さんは、空手家やキックボクサーという肩書だけでは語り尽くせない人物です。現役引退後は格闘技ジャーナリストとして活動し、中日スポーツや東京中日スポーツなどで取材・評論を続けました。試合を経験した当事者として、選手の技術や試合展開を分析する立場に移ったのです。
東京中日スポーツでは、格闘技コラム「山崎照朝 撃戦記」を連載。日刊スポーツの報道によると、2025年1月31日までコラムを掲載しており、亡くなる年の初めまで格闘技を伝える仕事に携わっていました。
競技経験者が記者になることには、大きな意味があります。試合の勝敗だけではなく、選手がどのような技術を選び、相手の動きにどう対応したのか。実際にリングや道場で経験した身体感覚を、読者に伝えることができるからです。山崎さんは競技者から伝え手へと立場を変えながら、格闘技との関わりを保ち続けました。
さらに、歌手としての活動もありました。山崎さんは、漫画を原作とするアニメ『空手バカ一代』のエンディングテーマ「空手道おとこ道」の歌唱でも知られています。自身が実名で登場する作品とのつながりもあり、当時の空手ブームを象徴する存在の一人でした。
そして、山崎さんの名前を格闘技ファン以外にも広く知らしめたのが、漫画『あしたのジョー』の力石徹のモデル説です。
文春オンラインに掲載された森合正範氏のインタビュー記事で、山崎さんは、原作者の梶原一騎さんから力石徹のモデルだと直接告げられたと証言しています。山崎さんの回想では、梶原さんが自宅を訪ねた際に、主人公・矢吹丈のライバルとなる力石のモデルが山崎さん本人だと伝えたといいます。
山崎さんは長らくこの話を積極的に語らなかった理由についても、同インタビューで説明しています。過去にモデル説を話したところ、売名行為だと受け取られた経験があり、梶原さん本人も亡くなっていたため、証明するのが難しいと考えたというのです。
そのため、力石徹のモデル説は、単なる出所不明のネット上の噂とは異なり、本人の証言と取材記事に基づく逸話として知られています。一方で、その成立経緯を理解する際には、本人の回想と作品の制作資料を同一視しないことも大切です。
力石徹は、矢吹丈の前に立ちはだかる強敵であり、作品を象徴する重要なキャラクターです。山崎さん自身も、インタビューで力石の顎の張った特徴などが自分に似ていると語っています。現実の格闘家の存在が、漫画の人物像に結びついて語り継がれている点は、スポーツと大衆文化の交差を示す興味深いエピソードです。
【死因と死去の経緯】2025年6月22日、胆管がんで77歳で死去
山崎照朝さんは、2025年6月22日、胆管がんのため77歳で亡くなりました。翌23日、家族が公式Facebookなどを通じて訃報を公表。日刊スポーツ、スポーツ報知、ボクシング専門メディアのBoxing Newsなども、死去の事実とこれまでの経歴を報じています。
家族の発表では、胆管がんとの闘病の末に亡くなったことが伝えられました。息子の山崎倍実(ますのり)さんは、父が病と闘う間も弱音を吐かず、周囲への気遣いを忘れずに毅然とした姿勢を貫いたと報告しています。
訃報が伝えられた際には、極真会館の松井章奎館長も追悼文を発表しました。松井館長は、山崎さんが極真空手の技術的発展に大きく貢献したことに加え、新聞記者としても組織運営や広報活動に助言をしてくれたと振り返っています。
競技の第一線を退いた後も、山崎さんは格闘技を伝える仕事を続けていました。東京中日スポーツでの連載が2025年1月まで続いていたことを踏まえると、長年にわたり現場と読者をつなぐ役割を担っていたことが分かります。その後、闘病を経て6月22日に亡くなり、家族の発表によって死去が公になりました。
ここで重要なのは、死因について公表された情報と、それ以外の推測を混同しないことです。家族および複数の報道が伝えている死因は胆管がんです。治療の詳細や病状の進行について、公開された情報以上の事情を推測する必要はありません。
2026年現在、山崎さん本人は故人ですが、その足跡は全日本選手権の公式記録、極真会館の追悼文、逆真会の経歴資料、格闘技メディアの記事や映像などに残されています。現在の山崎照朝を知るということは、本人が存命であるかのように活動状況を追うことではなく、遺された技術や記録、指導の歩みを振り返ることです。
【プロの結論】山崎照朝の功績をどう評価すべきか
山崎照朝さんの生涯を評価する際、最も分かりやすい指標は、1969年の全日本空手道選手権大会優勝と、キックボクシングでの8勝8KOという実績です。しかし、数字だけでは、その功績の全体像を捉えきれません。
第一に、山崎さんは直接打撃制空手の初期に、実戦で通用する技術の水準を示した選手でした。隙の少ない構え、間合いの判断、鋭い突きや蹴りを組み合わせた戦い方は、競技としての極真空手を考えるうえで重要な記録です。
第二に、空手とキックボクシングという異なる競技で活躍したことです。競技のルールが異なれば、求められる技術や戦術も変わります。その両方で結果を残したことは、山崎さんの技術が一つの競技形式だけに依存していなかったことを示しています。
第三に、引退後の活動です。新聞記者として格闘技を分析し、空手の指導者として技術を伝え、さらに後進の育成にも携わりました。選手としての名声を、その後の仕事や指導に結びつけたことが、山崎さんの生涯を特徴づけています。
山崎さんを知る際には、インターネット上で広まった異名や力石徹のモデル説だけに注目するのではなく、全日本大会の記録、公式追悼文、本人へのインタビュー、逆真会の経歴資料を合わせて見ることが有効です。競技成績と本人の証言、関係者の評価を照らし合わせることで、伝説として語られる部分と、記録で確認できる実績を整理できます。
山崎照朝さんの功績は、勝利の数だけでは測れません。空手の技術を実戦で示し、格闘技の現場を記者として伝え、指導者として次の世代に手渡した。その三つの役割を長く担ったことこそ、「極真の龍」という異名の先にある人物像です。
【山崎照朝】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:山崎照朝さんの死因は何ですか?
A1:2025年6月22日、胆管がんのため77歳で亡くなりました。翌23日に家族が訃報を公表し、日刊スポーツなど複数のメディアも死去を報じています。
Q2:山崎照朝さんの全日本空手道選手権の戦績は?
A2:1969年の第1回大会で優勝して初代王者となり、第2回大会では準優勝、第4回大会では4位、第5回大会では準優勝を記録しました。特に1973年の第5回大会での盧山初雄さんとの決勝戦は、極真空手の名勝負として知られています。
Q3:山崎照朝さんのキックボクシングの戦績は?
A3:逆真会の公式プロフィールなどによると、通算10戦8勝8KO2敗です。8勝すべてがKO勝ちで、2敗はいずれも再戦での判定負けとされています。
Q4:山崎照朝さんは力石徹のモデルだったのですか?
A4:本人は取材で、漫画『あしたのジョー』の原作者・梶原一騎さんから、力石徹のモデルだと直接告げられたと証言しています。文春オンラインに掲載された森合正範氏のインタビューでも、その経緯が紹介されています。
Q5:山崎照朝さんは大山倍達とどのような関係でしたか?
A5:高校時代に極真会館へ入門した直弟子の一人です。大山倍達の指導のもとで空手を修業し、全日本選手権の初代王者となりました。引退後も、師から受け継いだ技術を逆真会で指導し続けました。
Q6:山崎照朝さんの身長は何cmですか?
A6:人物プロフィールでは177cm、体重62kgとされています。空手家としての異名は「極真の龍」「天才」です。
Q7:山崎照朝さんはジャーナリストとして何をしていましたか?
A7:中日スポーツや東京中日スポーツなどで格闘技の取材・評論を行い、コラム「山崎照朝 撃戦記」も連載していました。日刊スポーツによると、同コラムは2025年1月31日まで掲載されていました。
まとめ:山崎照朝が残した記録と空手の精神
山崎照朝さんは、1947年7月31日に生まれ、1969年に極真会館の第1回全日本空手道選手権大会を制した初代王者です。キックボクシングでも10戦8勝8KO2敗という戦績を残し、「極真の龍」と呼ばれる存在になりました。
引退後は格闘技ジャーナリストとして現場を伝え、逆真会館ではボランティアを軸に空手の指導を続けました。歌手としてアニメ『空手バカ一代』のエンディングテーマを歌い、『あしたのジョー』の力石徹のモデルとしても語り継がれています。
2025年6月22日、胆管がんのため77歳で亡くなった山崎さん。その生涯を振り返ると、競技者として勝利を重ねた時代だけでなく、記者として格闘技を伝え、指導者として技術を次世代へつないだ年月の重みが浮かび上がります。
2026年以降も、山崎照朝という人物を正確に理解するための手掛かりは、公式大会記録、関係団体の追悼文、本人の証言、そして長年にわたる指導と執筆の記録にあります。「極真の龍」の名を、単なる伝説としてではなく、日本の格闘技史を築いた一人の実践者の足跡として捉えること。それが、山崎照朝さんの功績を振り返るうえで大切な視点です。 (出典: 山崎 照 朝(Yahoo!ニュース))